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94年に続き01年そして17年ぶりのリトアニア

2018.10.25.
まだソ連時代の爪痕も残るリトアニアを初めて訪れたのは1994年。 2001年に再訪しました。 このときはスウェーデンのYstad港から船でポーランドの港にフェリーで(一泊して)渡り、ポーランドから電車でリトアニアに入り、カウナス駅に。 確か着いたのが早朝で、ペンパルのご両親の家までタクシーで行こうかと思ったけれど、けっこう高かったか、それともタクシーが見当たらなかったか、この際歩いて行くことにしました。 歩いて行くって徒歩30~40分かかったはず。 ご自宅は市の中心部と郊外の境目にあり、駅からこっちに真っ直ぐ行けばいいと、覚えていたんですね、7年前の場所を! 

そして、きちんとアパートの前に着き、3階の窓に向かってペンパルの名前を叫んだら、ペンパルのお母様が顔を出し驚いた笑顔で私の名前を呼び、家の中に招き入れてくれました。 ペンパルには着く日を手紙で伝えたけれど時間までは分かっていなかったんですね。 ご両親は嬉しそうに朝食の支度を私にしてくれ、それからペンパルに電話をかけて。 突然、ひょっこり、自力で(?)やってきたので皆びっくり。

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(着いた日、何かイベントをやっていました。)

いやー、今回(2018年)17年ぶりの再訪の際、すっかり全部忘れていました。 駅からの道順も、どのアパートだったかも。 あのときの私、よく分かったなーというか、よく躊躇なく歩いて行っちゃったなーと、自分のバカさや無謀さにあきれます。 スウェーデンからフェリーでポーランド、そこから電車でリトアニアに行くってルートも、安かったからですが、今はできない・・・ 若かったのね、本当に。

このとき(2001年)ペンパル家族は1994年に住んでいた田舎のコンクリート剥き出しで建設中だった大きいだけで何にもない家はそのまま売っちゃって、カウナスに戻っていました。 カウナスのはずれの、草や木が生い茂る場所にある、元はご両親のサマーハウスだったという木造の家に住んでいました。 大きな家だけど、4世帯に区切られたアパートで、風呂はなく共同便所が外にあったので、お風呂はご両親の家に行って借りていました。

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(ペンパルが勤める学校。 あちらこちらにリトアニアの手工芸が飾られていました。)

ペンパルはカウナスにある学校で英語教師をしており、旦那は相変わらずいろんなことに首を突っ込んで忙しそうにしていました(が、全てものになっていない模様)。 前回訪問どきは文字どおりションベン垂れだった子供たち(早朝から子供たちが私の部屋にやってきて叩き起こし、ベットの周りには下の子があちこちにこさえた水たまりが出来てて、上の子はオマルを手にし朝一番に自分がしたものを誇らしげに私に見せてくれた)は、小学3,4年生くらいになり、甲斐甲斐しく私の世話をしてくれます。 言葉は通じないんだけど、子供同士(!?)意思疎通ができたのでしょうか、いつも子供たちと遊んでいたような・・・

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(校舎内に飾られていたリトアニアの民芸品。)

確か2~3週間ほどペンパルのとこに居候したと思います。 そんな図々しいこと平気でしちゃうぐらい私は子供で、リトアニアの人々は当たり前のごとく受け入れてくれるホスピタリティ。

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(終業式準備中の体育館。)

特に何したというわけでもなく、ペンパルの学校に一緒に行って、彼女の生徒は中学生くらいの子たちで、英語の試験の添削を手伝ったり、学校の日帰り旅行にくっついて行ったり。 6月で夏休み直前のことでした。 終業式にペンパルは生徒から花束を貰って帰って来ました。

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(学校で行った、石切り場がアートになっている屋外博物館?)

キリスト教の祝日に田舎の知人宅のパーティーに呼ばれ皆で行ったとき、主催者のおじさんが「以前のこの日にもあんたは来てくださった! もう私も老い先短いが、こうして再び会えることができ、なんて嬉しいこった!」と大変喜んでくださりました。 私の方は忘れていましたが・・・ 私も嬉しい! ぜ~んぶ手作りの田舎のご馳走をいろいろいただきました。 前回も、やはりお祝い事が多く、いろいろなところでご馳走になったから、どれがどれだった覚えていないのです。

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(お庭にご馳走広げて。)

当時リトアニアでいただいた馳走というと、ソーセージ、じゃがいも、新鮮なサラダ、ニシンの酢漬け、ゼリー寄せ、ビール、外では肉を串刺しにして炭であぶるバーベキュー。 どれもおいしい! 素材の良さが味わえ、日本人の口にも合うと思います。

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(でもこのバーベキューはリトアニアではなく元ソ連邦の国のどこかが起源。)

確かこの年はペンパルたち夫婦、結婚10周年だったかと。 家族で祝っている写真も残っているので・・・ 94年のときは二人を離婚させペンパルを救い出さねばと私は憤っていましたが、10年も経てば、ずいぶん落ち着いたようです。

私の方はその後スウェーデンに住むことになり、リトアニアとは目と鼻の先なのに、旅行の余裕がないまま年月が流れ、それでもペンパルとの交流は、手紙から電子メールへと変化しつつも続いていました。 いつもリトアニアに行きたいと思いながら。 

そして今年、本当は夏に日本に行くのでまたリトアニアへはまた先延ばしと思っていたのですが、そんなこと思っているといつまでも行けない、私たちだって老い先が短くなってきていると感じるお年頃となり、決行。 17年ぶりの再訪、再会となりました。

ペンパルは同じ学校で英語教師を続け重要な役職にもつき、旦那は起業し木工製作所を経営し、大学でエンジニアの学位を取得した息子が一緒に働くことになり、娘の方は経営学の方でマスターまで取得し給料も良い安定した職に就いていたのが自分でビジネスを起こすと言い出し、ペンパルは嘆いていました。

娘さんは本当に美しく素晴らしい女性に成長し、私が英語で「本当に美しいレディになって!」と言う傍で、誇らしげに満足そうに「イエス、イエス」と頷いていたのは、彼女の婚約者。 外資系の会社に勤務する弁護士で、仕事ができるだけじゃなく性格もよく、大人だけでなく子供に対する面倒見もよく、他の子供たちにも慕われ、うちの子もすっかり懐いてしまった。 娘さんのことをとても大切に愛していることが私にも伝わり、彼女が良い人に巡り会え私も安心。

別れ際「お母さんに会いに来てくれて、ありがとう!」と私に言ってくれたときジーンと感動し涙が出そうになりました。 初めての訪問のとき、お土産に持って行ったポケットティッシュを、鼻が出たときチーンとかむものよ」と母親から説明を受け、ペンパルが大事に仕舞っておいたのを見つけ出し、1枚ずつ紙を出しては「チーン、チーン」と鼻をかむ真似をし全部使い切って怒られていたあの子が・・・ 今でも、私が遊んでやった「いっぱんばしこちょこちょ」を覚えていて・・・

娘とも息子とも今は英語でしっかり喋ることができたのに、私の方は小さかった頃の印象しかないから、ずっーと私より背が高くハンサムと美女の二人を前にし、妙に恥ずかしくなってあまり話すことが出来なかった。 今度会うときは、もっといろいろ話そう。 今度会うときは、(ペンパルにとっての)孫も生まれているんだろうなぁ。

そして、旦那の方は今でも住んでいる元サマーハウスの家の横に新しい家を建てています。(まだコンクリート剥き出し。) これから夫婦で生活するのにちょうどよいサイズの居心地の良い家。 次に来た時には、その完成した家に泊めてもらおう。

PS. 前回の記事に心に染みる素晴らしいコメントを頂きました。
ありがとうございます。
若くて無知で純粋なモラトリアムの時期をかけがえのないものにしてくれたのは、私のリトアニアのペンパルです。
彼女の人生の深さに比べれば、なんと浅はかな私の人生。
そこに深みを与えてくれたのは私のペンパルであり、羨ましいとおっしゃていただいた、その賛辞は、全て彼女に負うものです。

Fちゃんもありがとう!

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